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  • 執筆者の写真田島つよし

11年目の3月11日に寄せて

今年も3月11日がやってきました。あの年と同じ、金曜日です。

東日本大震災による地震と津波、そしてその後に起きた原発事故の被害に遭われたみなさまに改めてお見舞いを申し上げるとともに、お亡くなりになった方のご冥福を、心よりお祈り申し上げます。

そして今なお故郷に戻ることのできない多くの方の苦しみ、悲しみはどれほどかと思うと、心が痛みます。


2011年3月、田島つよしは人生初の選挙戦の準備をしていました。

4月に投票が行われる統一地方選に、埼玉県議会議員候補として立候補することが決まっていたのです。

そして告示を目前に控え、準備も着々と進んでいた3月11日に東日本大震災が起きました。


地震と津波の凄まじさに驚いたのはもちろんのこと、その後に起きた原子力発電所の事故には、大きな不安を抱きました。

しかし報道を見ても重大事ではないような政府や東京電力の発表。疑問を抱きながら、情報の無さに苛立ちを感じていました。


そんな中、オランダに居る自分の師匠ヨハン・ボス氏から一通のメールが届きました。「大変なことになってるじゃないか。こっちではチェルノブイリの二の舞と大騒ぎだぞ。すぐに家族を連れて避難して来い。」と。

ヨハン先生は武道家の中の武道家。少々のことでは動じませんし、物事を冷静に見極める方です。その先生がこんな切羽詰まったメールを送ってくると言うことは、自分たちが知らされていないだけで、事態は相当深刻なのだと察しがつきました。

しかし自分には経営しているジムがあり、子どもたちも幼く、すぐに荷物をまとめて発てる状況ではありませんでした。


その後も政府や東京電力の発表は、相変わらず重大事とは思えないようなものでした。大量に散らばったはずの放射性物質も「直ちに健康被害はない」とのこと。しかし自分は幼い子どもたちのことが心配でならず、細心の注意を払って子どもたちを守ることに専念しました。

そうこうしているうちに選挙戦が始まり、自分は家族や友人の助けを借りて、街宣に出ました。



当時は「桃太郎方式」を取り、徒歩でボランティアと共にノボリをかついで選挙区を回りました。まさに地元密着、顔の見える候補者です。そして政策は他の候補者と比べて遜色ないものでした。しかし投票日になって、組織票の威力をひしひしと思い知ることになりました。政策だけでは勝てない。やはり票を取るための作戦が必要なのだと。


選挙戦が終わり日常が戻ってきましたが、相変わらず政府は「直ちに健康被害はない」を繰り返していました。原発が実はメルトダウンしていたことや、大量の放射性物質が関東地方を通過していたことが発表されたのは、随分後になってからです。

しかし自分はインターネットや知り合いから集めた情報で、かなり気を付けて生活しなければならないことに気づき、放射能の被害を避けることと、原発反対の声を上げることに力を注いでいきました。


子どもが入学した小学校ではPTA会長を務め、子どもたちを被曝から守るために奔走しました。「大げさだ」「被災地に失礼だ」と言う声もありましたが、事実として「放射線量」と言う数値で表わされていることを「大げさ」と切り捨て、「被災地に失礼」と言う言葉で子どもたちを危険にさらすより、目の前にいる子どもたちを守るために最大限の努力をするのが、自分たちの役目と信じて行動しました。なぜなら子どもたちは、自分で身を守ることなどできないからです。頼りは自分たち大人だけなのです。ですから大人たちはその責任の重さを受け止め、行動する必要があります。

そして、東京電力の事故と同じレベル7だったチェルノブイリ原発事故により、今も一帯は立ち入り禁止、健康被害が続いていることを考えれば、自分の取った行動は大げさでもなんでもなかったことが分かります。


その頃盛んに行われていた脱原発デモに、幼かった1人目の子どもの手を引き、2人目を肩車して、妻と共に参加したこともあります。これからこの子たちが育っていく環境には常に放射性物質が存在し、内部被ばくの影響を一番受けるのはこの子たちなのだと思うと、やり切れない思いでした。



2013年、今は衆議院議員となった山本太郎氏が、参議院選挙に出馬しました。

政策を見ると、支持できる内容ばかり。大注目して応援していたところ、「殺害予告が出た」と言うニュースが伝わってきました。

言論や活動を暴力と脅しで封じ込めるなど、許せるはずがありません。

しかもターゲットになっているのは、たった一人で原発反対に声を上げて孤軍奮闘を続けている山本太郎氏です。

知り合いから依頼があり、街宣現場でボディーガードのボランティアを務めることになりました。

その際の移動中に太郎氏と言葉を交わせることもあり、その思いを聞いて、「絶対に国会へ行って欲しい」と改めて思いました。

自分と山本太郎氏の出会いは、この時にさかのぼります。

投票日には事務所へ行き、当確を他のボランティアさんと一緒に祝いました。



原発政策以外にも、その後の政府の政策は、増税をはじめとする経済政策、特定秘密保護法や安保法制など、疑問を持たざるを得ないものばかりでした。

そんな疑問だらけの政治に一石を投じたい思いで、2019年にれいわ新選組の「候補者公募」に応募し、翌2020年に公認予定候補となって、新たな政治活動をスタートさせました。


2020年の活動では、前回立候補したときから大幅に悪化した日本の経済と金持ち優遇の税制に対する自分の政策を中心に、伝えて行くことにしました。

しかしその矢先新型コロナウィルスによる感染症が猛威を振るい始め、それでなくても弱っていた日本の経済は、ボディーブローで弱っていた選手がストレートパンチを顔面に食らったようになってリングに倒れました。


自分はがむしゃらに街に出て、人々に思いを訴えました。聞いて欲しいことが沢山ありましたし、みんなに勇気を持ってもらって一緒に立ち上がって欲しかったからです。

コロナ抑制のための政府からの自粛要請に応じた結果、事業が行き詰まったり生活に困っても助けてくれない政府。そんな政治に黙っているのではなく、みんなで声を上げて変えて行きたかったのです。


政策を訴えるチラシを作り、家族や当時はまだ少なかったボランティアさんの手を借りて細々と配り始めました。

連日力強くマイクを握り過ぎたせいか、半年ほどして腕が上がらなくなったこともありました。

日中は街角で思いのたけを訴え、夜はジムで指導。2020年はあっという間に過ぎて行きました。



活動開始から1年が経った2021年、選挙戦が近づくと、沢山のボランティアの方が手を貸してくださるようになり、寄附をしてくださる方も増えました。そして街頭で話した後、泣きながら握手を求められることも何度かありました。

2021年秋に行われた衆議院議員選挙は残念な結果でしたが、多くの方に票を投じていただき、また活動してくださった方の輪が広がって、少しはこの社会を変える力になったことを願っています。


幼かった子どもたちも、中学生と高校生になりました。コロナの影響でいろいろな行事や機会が奪われ、幼いころに原発事故、そして10代でコロナ禍と、ロスジェネと言われる自分たちより、もっと不運な世代と言わざるを得ません。しかしその不遇な出来事を少しでも和らげ、愛と頭脳のある政策で良い方向に持って行くのが、大人の、政治の役目だと思っています。

田島つよしは初心の志を忘れず、これからも歩んで行きます。みなさんもそれぞれ、より良い社会を造るために行動していただければと思います。

3月11日に寄せる田島つよしの思いでした。


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